能登半島地震を経験して…

こんにちは えぐちの庭のともこです。
2024年、最初のブログ投稿です。
ブログ更新を毎週のルーティンにしていましたが、投稿が滞っていました。

初めに、

1月1日に発生した令和6年能登半島地震で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

能登北部にお住いの方々は、発災から2週間以上経った現在も厳しい寒さの中、避難所生活を送られているかと思います。

いつまで避難所生活が続くのか、大きな余震が来たら…不安な思いをしながら日々を過ごされているかと思うと心が痛みます。

今回は、お庭の内容とは反れてしまいますが、私が経験した能登半島地震について書かせていただきたいと思います。

平成19年能登半島地震

私は、17年前、平成19年に発災した能登半島地震と令和6年に発災した能登半島地震と2回経験をしました。
平成19年能登半島地震は当時小学校3年生で春休み期間中の日曜日の朝でした。
居間で家族と団欒をしていると、地響きが聞こえてきました。

「風の音か?」と思った次の瞬間、大きな揺れが襲ってきました。
体感で、30秒くらいだった気がします。
すぐさま、学校で教わった通り、テーブルの下にもぐり込みました。

幸いにも、家には地震の被害もなく、花瓶等が倒れるだけで済みました。
被害はなかったものの、地震の恐怖心が残り、当時はしばらく眠れない日々が続きました。

令和6年能登半島地震

発災時、年末年始で家族そろって在宅していました。
私は、自室の2階の部屋で仮眠をとっていると携帯からけたたましいアラーム音が鳴り響きました。

画面を見ると緊急地震速報の通知。

隣の部屋にいた妹が駆け寄ってくると同時に揺れがきました。
揺れがおさまり、目の前のテレビをつけると能登半島に震度5強と表示されました。

妹は、「またいつものか、能登町におった時に何回もあったわ」と能登北部で働く妹はいつものことで心配することはないと言いました。

「とりあえず、下に行こう!」っと言って1階に降りました。

先に母親が居間のテレビをつけており、各地の震度を見ていました。
見ていると再び緊急地震速報が鳴ったと同時にゴゴゴゴゴゴゴーと大きな揺れがきました。

前回の能登半島地震とは比べ物にならないくらいの揺れでした。
家が倒壊してしまうのではと本気で思ったくらいでした。

揺れがおさまったことを確認し、外に出ると町の行政無線から、緊急地震速報のアラームが鳴り響いていました。

近所の人たちも外に出てきており、父親が「大丈夫ですか?大丈夫ですか!?」
と呼び掛けていました。

近所の人たちも特に被害がなく、様子見のために外に出てきているといった感じでした。
その時の光景が今でも鮮明に残っています。

鳴り響く緊急地震速報のアラームと騒然とした雰囲気がこの世の終わりのように思えました。

初めての避難

一度、家の中に戻ると津波警報が発表されており、津波が来るかもしれないと思い、
最寄りの生涯学習センターまで徒歩で行くこととなりました。

「津波が来る!」

東日本大震災のことを思い出しました。

急いで自室に置いてある荷物を取りに2階へ行きました。
廊下の棚は前斜めに傾き、書類やら花瓶やらが落ちていました。

自室に入ると花瓶置きにしていた棚が倒れ、花瓶の破片が散らばり、ベッドや机が前に押し出されていました。
荷物を取りに行くまでの同線が塞がれ、取りに行くことができませんでした。

かろうじて、ベッド周りに置いてあったショルダーバックを持ってパジャマに上着といった格好で家を飛び出しました。
廊下の端に花瓶が置いてあるのですが、倒れて水がこぼれており、水で滑って転倒しました。
一見するとマンガみたいな状態なのですが、笑っている暇はありませんでした。
母親の趣味で生けた花や絵が落ちており、家を出るまでが一苦労でした。

私の実家は能登南部の羽咋郡にあり、自宅から一番近くの海岸である千里浜海岸までの距離が約6km、高台とまでにはいきませんが津波が来るような場所ではないところにあります。

近所の人は、「津波、こないんじゃないか?」と言っていましたが念の為、避難所に向かいました。
道中、沢山の車が金沢方面へと向かっていきました。

歩いていると、ブロック塀が倒れていたり、道路の一部分が液状化していたりと様々…

実家の近くにコンビニがあるのですが、目の前を通った時に丁度年配の店員さんが店の外に出ていました。
父親が「店、大丈夫ですか?」と聞くと、「だめですわ~、閉めます。」と言っていました。
2週間たった今も営業は再開していないらしいです。

ようやく避難所に辿り着くと思った間際にまた地震がきました。
誘導の方が建物に入ってと促し避難所に入ることができました。

どこの部屋へ行って良いかわからず、屋上階の体育館施設に行きましたがとても寒くその場に長時間はいられませんでした。
いとこから、学習センターの2階の和室部屋が暖房が効いているという連絡を貰い、急いで移動しました。
和室は20畳の畳の部屋が2つに仕切られており、いとこ一家とちらほらと数名が避難していました。
年始にこんな形で挨拶することになるとは思いもよりませんでした。

しばらくすると、和室が満杯になり廊下や他の部屋で避難された方が増えていきました。
母親の知り合いも避難所に到着し、「なんでこんなことになってしまってんろ~」等々話をしました。
20時ごろに非常食が配られましたが、なんとなく食べる気がおきませんでした。

和室の隣にクッキングルームがあり、携帯の充電をキッチンカウンター備え付けのコンセントでしていました。
クッキングルームには周囲の人に迷惑を掛けぬようにと、小さい子どもを連れた家族がいました。
1歳くらいの女の子がずっと泣いていて、お母さんも泣き止ませるのに苦労されていました。
大きな揺れ、いきなり知らない場所、両親も不安そう…様々なことが重なり不安な思いをしているのを見て、見ている自分も辛くなりました。

大きな余震が来たら…津波が来たら…いろんなことが頭に浮かんできて、辛くなりました。

現在も避難されている方から見ると、私が避難した状況は、電気も水もあって恵まれた状態でした。こんな贅沢な状態の中で、色々な不安をしてしまう自分がとても情けなく思いました。

そして、避難所に人が増えると起こる問題としてトイレの衛生状況も今回の避難で痛感しました。数時間しか経っていませんが、使う人が多いのでどんどんと不衛生になっていきます。
母親が率先して掃除を行っていました。
避難所はしばらく水は出ていたのですが、翌日には断水になり携帯トイレが使用されていました。

津波警報が注意報に切り替わった後、避難所をあとにする人が多かったです。
私たち家族は夜が明けてから行動した方がいいと思い、避難所で一晩を過ごしました。
周囲の人がいびきをかいて寝ている中でも、不安がつのり、眠ることができませんでした。
周囲に町の人々がいると心強いと思い寝られるかと思いましたが、実際には何か起こるんじゃかいかと気が気でありませんでした。

不安の要因

今回の能登半島地震で私を大きく不安にさせるのは何かについて考えました。
地震の揺れが来るのが怖いのか、地震によって引き起こされる津波が怖いのか、突然鳴る緊急地震速報が怖いのか、ネットで不安を煽る情報が怖いのか、今は、地震も津波も不安を煽るネット情報すべてが私にとっては恐く不安の材料です。

X(旧Twitter)でさまざまな情報を見ますが、自分にとって不安になる情報の他に、
被災者の方が被災地での生活の様子の投稿を見ることが楽しみです。
炊き出しで温かいご飯が食べられて幸せ、ミルクティーを貰えてうれしかった!という投稿を見ることで、大変な状況下でもおいしくご飯を食べられている幸せな様子を見ることが私にとってはその方たちの様子を見て、自分も元気をもらっています。

今まで送っていた生活を送ることはまだ難しいですが、ひとつひとつのことから始めたいと思います。
復興の近道はありませんが、みんなと乗り越えていくことが大切であると考えます。

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